讃岐総社 總社神社

この神社へは、高松方面からだと国道11号線から県道林田府中線を北上すると右手に見えてくる、そのまま直進すると林田港。
きれいに区分された周辺の田は、条里の名残を残しているという。
社叢は松の木がほとんどをしめ、あとはご神木の梛木の木。
五色台方面へ行くときは必ず此処でお参りをしてから、入るようにしている。
總社神社由来
旧記によれば、聖武天皇天平九年諸国に詔して国分寺、法花寺、一の宮、惣社を建立せしめ給いし当時、当国の国司従四位下大神朝臣豊島勅を奉じて此社を惣社とし奉りしと蓋し当社は府中を去ること北一里余りにして、参拝頗る便利なことと更に往古の大社にして、衆民の崇敬頗る厚かりしこととに依るならん、
然るに其後嘉慶年中、宮殿残らず焼失したるにより細川武蔵守之を憂ひ明徳元年再建を奉仕せり、当時武蔵守夢想の事あり境内にありける梛木の大木半焼の茂の中に、神体遷座ましけるに依り本宮に鎮め奉りしと伝へり、
其後天文二十年三好の一族により修覆再興あり惣社として繁栄有りしに天正年中土佐兵乱入の時兵火に罹り焼失す。
その時も亦御神体彼の梛木の木に遷座し給ひしを発見し、氏子一同恐懼し全氏子の奉仕を以て、神殿竝に付属建物を建立す時に慶長二年なりし、
其後元禄十五年五月及明治三十五年の両度に改築今日に及びしなり。
御神体の遷座ありし焼残りの梛木枝葉茂りて今尚存せり。


社伝曰崇徳天皇当村倉敷川(松山の津)へ後着船の時、当社の祠官御出迎い申し御輿を高遠の御堂へ導き給ひし御縁故にて、帝当社を厚く御崇敬遊ばされたりと云う。
社家冨家氏は藤原頼長の後昆と云い伝う、即ち頼長二男中納言師長は土佐に流されしが第二子冨家忠光は上皇を慕ひ奉りて当地に来り、一子宮内社家を襲い以来三十二代其任にあり、高松藩祖源頼重公御入府以来崇敬特に厚く寛永十九壬午年御国廻りの砌参拝あり、当時冨家第二十代刑部一国一社惣社大明神の神主を差許すとの御諚あり。
且御紋付御太刀二振を御寄進あらせられたり。明治五年社格制定の際郷社に列せられ明治四十年九月神饌幣帛料供進の社に指定せらる。
宝物
御額、大般若経、刀剣等多数あり。





